山形の廃道 掲示板
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(0)11/09/17(土)22:20
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行きましたか。
投稿者:
旧車野郎
投稿日:2008年10月29日(水)19時08分35秒
返信・引用
二ツ小屋隧道ですが、他のホームページでも幾つか紹介有りますが、11月から5月頃まで閉鎖され(栗子隧道も含め)1年の半分が閉鎖され本格的な自動車の普及に対応できず問題になっていました。関山隧道については冬季閉鎖の記録がなく1年中通行可なのかは判りません。やはり冬季間は国鉄が主流だったと思われます。
もしかしたらお気づきかも知れないが、二ツ小屋隧道の中央部当りの壁が厚く道路が狭くなって居ますが、昭和28年頃隧道内部で崩落が有りその対策で厚めにコンクリートを巻きつけました。他にも既に崩落した栗子隧道にも同じ厚めのコンクリート巻きつけが有り(昭和24年頃実施)やはり内部崩落が原因でした。然し巻きつけたもの20年と少しで再崩落が発生し現在に至ります。共にそれ以降大型自動車のすれ違いが困難になりました。
私どもの先祖は作者様が書かれましたが、大平集落にかつて米沢藩士が住んでおりその中の1武士です。二ツ小屋隧道を通り一度は足を伸ばしたいが崩落状況や漏水の状態を考えるとどうも行く気になれません。
物資輸送
投稿者:
朝日
投稿日:2008年10月29日(水)16時19分24秒
返信・引用
国鉄の貨物列車
二ツ小屋隧道
投稿者:
aobasuzume
投稿日:2008年10月29日(水)10時11分7秒
返信・引用
雪の季節になる前にと思い日曜日に訪ねてみました。東栗子トンネルから外れて荒れた山道を辿ると突然目前が開け荘厳な隧道が現れびっくりしました。隧道という名前から小さいイメージを持っていましたが、これはどうして立派なトンネルです。入り口に立つと冷たい風が吹き抜けてきます。トンネルは幅員が広くて天井も高く関山隧道の比ではありません。ただ崩壊が激しく痛々しいです。それでも新たな崩落の進行はないようで、「鳳駕駐蹕之蹟」碑の周りは下草が刈られ手入れがされているようでした。荒れている割には道が雑草に覆われることもなくいたるところに格闘の跡も見られ、訪れる人が多いことを窺い知ることができます。外部の重厚さに比べ内部が粗雑な感じが否めない二ツ小屋隧道ですがこの道は冬季は閉鎖になったと聞きます。その間の物資輸送はどうしていたのでしょう。関山隧道も冬季は通れなかったのですか?
デジャブー
投稿者:
朝日
投稿日:2008年10月29日(水)09時06分17秒
返信・引用
あら探し のようで申しわけないが・・
国道48号は 天童市久野本ではなく山形市飯田の交差点が「終点」
昭和43年以前 さんざん走った二級国道48号は狭い所もあったけど バスがすれちがっていました
笹谷はトンネルが出来る昭和50年代後半まで砂利道で 関山しか通る道がなかったわけで 栗子の次に立派な道でした
事故の起き易い所
投稿者:
旧車野郎
投稿日:2008年10月25日(土)07時36分30秒
返信・引用
作者さま御指摘通り宮城側ですが、一番はトンネル出てすぐ、二番は現道に繋がる橋を下りすぐのカーブで慰霊碑は二番目の橋の付近に有ります。
山形側は宮城の様な急カーブは少ないが九十九道ゆえ夜間が危険でした。(特に雨天)
国道48号線は天童市久野本から始まるが昭和43年以前の道幅は現在の半分位です。
事故箇所
投稿者:
作者
投稿日:2008年10月25日(土)02時09分51秒
返信・引用
旧道の線形を見るとわかりますが、事故は主に宮城側の
無理なカーブで起きていたようです。
慰霊碑も宮城側にあります。
そうです
投稿者:
旧車野郎
投稿日:2008年10月24日(金)19時07分43秒
返信・引用
但し栗子隧道と比べればまだマシな方かも知れません。栗子は時速15キロぐらいしか出せない険道でした。
幽霊の話は、以前の書き込みに詳しくありますが、私の祖母(87)が昭和39年当時勤務していた先の児童とその母親が関山で犠牲になり、未だ成仏できずに居るそうです。
然しあの道を使い鉄道車両を運搬とは凄いです。多分ディーゼル機関車でしょうか?幹線道路ゆえ色々ありますね。この間も書いたが伯父の遺体もこの隧道経由で運ばれたし、我が家の一族が航空自衛隊矢本基地にも行きました。
さて宮城側の水溜りも相当ですね。私のクラウンではまず無理です。
地元の高崎小学校の関山の探検ですが、詳しい意図は判りません。でもやや危険なところだが、冒険をする事は教育上いい事だと思いますし、教職員に敬意を表します。モンスターペアメントが増えている中企画、実行は素晴らしいです。きっと子供達にいい想い出になると私は確信します。
危険な道だったのですね
投稿者:
aobasuzume
投稿日:2008年10月24日(金)09時07分18秒
返信・引用
そのような悲惨な過去があったので幽霊のうわさがあったのでしょうか?
そんな気配は微塵もありませんでした。
昔ここを専門に走っていた大型貨物の運転手さんの話では、幽霊には遇わなかったが、怖い目には何度も遭ったと言っていました。そのひとつ昔この道を使って鉄道車両を運搬したことがあったそうです。カーブがきつくて曲がれないときは前後からクレーン2台で運転席側と貨物の後ろ側とをそれぞれ吊り上げて通過したそうです。吊り上げられると運転席が道を外れて谷に飛び出るのでそれはそれは恐ろしかったと懐かしそうに語っていました。
二ツ小屋隧道も機会があれば行ってみたいです。
それはそうと高崎小学校ではよりにもよってなぜこんな場所を探検に選んだのでしょう?何か訳でもあったのですか?
凄いですねぇ!
投稿者:
旧車野郎
投稿日:2008年10月23日(木)15時00分50秒
返信・引用
貴重なリポート有難う御座います。やはり中央付近に勾配を感じられましたか。その昔うっかり下りにつられスピードを出しすぎ宮城側でハンドルを切りそこね直角カーブで崖下にダイビングや対向車に激突等悲惨な事故が多発しました。昭和30年代も半ばに入ると飛躍的に車の性能が向上し明治時代の道路では対応できなくなりました。
方向転換場所も無いのにどうやって出てきたか不思議でしたが切り返しをしながら戻られたそうですが、しんどくなかったでしょうか。
密かに私も関山隧道バックに愛車の写真を撮りたいと目論んでますが、クラウンゆえ実現が難しいです。それとトンネルの壁が代表的な二ツ小屋隧道と比べかなり状態がいいです。
関山隧道
投稿者:
aobasuzume
投稿日:2008年10月23日(木)06時58分40秒
返信・引用
旧車野郎さま
作者 さま
貴重なご情報をありがとうございます。
> 1、県境付近で勾配がある様な感じがなかったでしょうか?
隧道内は中央付近から両出口に向かってゆるい下り勾配になっているように感じました。
> 2、隧道内に入ってからバックで出られたのでしょうか?
隧道内で切り返しをして戻ってきました。
隧道入り口付近は大き目の石(パジェロミニでまたげる位)が転がっていましたが、そこまでの道は芝のような低い草に覆われているところが多いものの邪魔な土砂は脇に寄せられ、拍子抜けするくらい通行し易かったです。
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